◇ 西廟は護国寺といい、皇城の西北、定府大街の真西にある。東廟は隆福寺といい、東四牌楼の西、馬市の真北にある。
正月から毎月、西廟では七と八の日、東廟では九と十の日に縁日が開かれる。
縁日には珠玉、綾衣に薄絹、衣服、飲食、骨董、書画、花鳥、虫魚から通常の日用品まで百貨が集まり、占い、流れの芸人など「ないものはない」都の一大定期市になる。
これら両廟の市では花がもっとも雅やかで見応えがある。
春は果樹、夏はジャスミン、秋は金木犀や菊、冬は水仙が優れている。
春の花のなかには牡丹、海棠、ライラック、八重桃があるが、これらは厳しい冬に開花し、その鮮やかさ、艶やかさは特別なものがある。上手く自然の働きを奪い取り、季節を前倒ししている。自然を超越するような物事を究めるためいろいろな研究は深く行われているが、残念ながら書物はまだ存在しない。かつて泰西の農学書のなかに、一粒の種を得ることは十万粒を得ることだと書かれていたが、もし花々の栽培にこれを生かせたら、はるか上を行くことになるだろう。しかし人工的に栽培することは費用も高く、水遣りも難しいので、趣味で行うのは良いが、農事として行うことは絶対的に不可能だ。たとえば冬瓜、ナス、インゲン豆などは厳冬の中でも栽培することができ、色も味もよい。しかし値段はとても高く、すべての人々がこれを食べることはできない。こういったことも不可能だということの明確な証になっている。
『日下旧聞考』には
護国寺は崇国寺といい、明の時代には大隆善護国寺といったが、現在はたんに護国寺という。ここは元の宰相・脱克脱の邸宅だった。寺院内の線仏殿の傍らにひげの生えた?頭(ぼくとう)という頭巾をかぶり朱の色の衣をまとった翁と、鳳凰の冠を被り朱色の衣装を着た嫗の像が立っているが、これは脱克脱夫妻の像である。
と書かれているが、この像は現存していない。
隆福寺は明の景泰四年(1453年)に建立した。万人の人夫が使役した。寺院内の漢白玉石の露台、欄干があるが、これらは南宋の時代、蒙古に囚われた皇帝が閑居していた南内・翔鳳殿の遺物だ。
清の雍正元年(1723年)修復され、世宗・雍正帝御製の碑文がある。この寺院は護国寺に比べると完全な形になっている。
(隆福寺は光緒二十七年十二月二十二日(1902年/1月31日)に火災に遭った。)
訳注:
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