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燕京歳時記 一月 「白雲観」


白雲観は阜成門外南西に五、六里(3km)の場所にあり、その開基は最も古く、金、元の時代からあった。観内にある「萬古長春」の文字は、邱長春がかいたものと伝えられている。
毎年正月には一日から十九日まで縁日が開かれ、遊山者は途絶えることなく、車馬も盛んに行き来する。十九日がもっともにぎやかだが、この日は「会神仙」の日だ。十八日の夜中に神仙は下界に下りてきて、遊山者や、乞食に身をやつす。もしこの身をやつした神仙に出会えば無病で長生きできるという言い伝えがある。そのため道士たちは集団でそれぞれに廊下で神仙に出会えることを願い座禅を組む。出会えることができるかできないかは本人にはわからない。
観内に老人堂が一ヶ所あり、そこに年老いた道士たちが住んでいるが、彼らは神仙ではないものの、齢百歳を超える道士もいて、修養により長寿を得ることができるという明らかな証拠になっている。
観内の奥には庭や亭があるが、これは最近できたもので、かつてはなかった。

『日下旧聞考』によると、

白雲観は元の太極宮の跡地にあり、観内には邱真人の像がある。真っ白な顔で、髪もひげもない。正月一日に都の人々はやってきて祠の下に酒を注ぎ、祈りをささげるが、これを燕九節という。
邱真人は山東の登州棲霞の出身で、名前は処機といい、長春子と号した。十九歳で出家し、寧海の崑崙山で学んだ。己卯の年(1219)に元の太祖(ジンギスカン)は奈曼から使者を遣わし彼を召した。このとき、使者がまだ到着しないうちに邱真人は弟子に皇帝の使者が訪れたことを告げ、招聘に応えるために旅支度を整えさせたという。そのあくる日、使者が到着、弟子十八人とともに出発した。数十カ国を経て、百余里を行き、雪山に到着したという。 太祖はそのとき西方征伐中で、日々戦を行っていた。邱真人は常々太祖に「天下が欲しいならば、人を殺すことを嗜んではならぬ」といっていた。太祖が政治について尋ねたときは、「敬天愛民がその基本だ」と答えた。また不老長寿についてたずねると、「清新寡欲が要だ」と答えた。太祖は喜んで左史に任じ、諸策を書かせた。邱真人が帰還を願い出たとき、皇帝は神仙という号を賜り、大宗師の位に封じ、国中の道教寺院を掌握させ、燕京の太極宮に住まわせた。後に長春宮と名前がかわったが、これが現在の白雲観のことである。邱真人は八十歳で、尸解得仙したという。

と書かれている。


訳注:

邱長春: 金の時代、王重陽が開いた道教の一派である全真教の高弟・七真人の一人


2007/04/28/
改稿2012/03/19

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