◇ 十三日から十七日までの間を提灯祭り(提灯の節句)といい、十五日は正灯という。
毎年提灯祭りには、宮廷では饗宴が開かれ、花火が挙げられ、街には提灯が下げられる。
大通りの提灯飾りは、東四牌楼と地安門が一番華やかだ。
工部、兵部の通りがこれに次ぐが、他の提灯はこれらに及ばないが、
東安門の新街口、西四牌楼のものは見るに足るもがある。
(兵部の提灯は光緒九年に閻敬介の建議により禁止となった)
様々な提灯は、薄絹、ガラス、板膠で作られ、古今の物語が描かれていて目を楽しませてくれる。
器用な人は、氷で器を作ったり、麦の苗で人形を作ったりしている。
華麗だが派手ではなく、素朴だが野暮ではなく、見るに値する。
花火を売る屋台では各種の花火を製造し、珍しさや技術を競っている。
花火には箱から挙げるもの、花器から花が咲くようなもの、竿につけた花火、牡丹や蓮、月が落ちるさま、ぶどう棚を表したものや、連発式の花火など色々な種類があり、これらを権力や金のある家が競い合うように買い求める。
花火は火の樹木に銀の花が咲いたように人を照らしている。道行く車馬は騒がしく、笙の音やら歌声も喧しい。
これが白昼から夜10時に至るまで続くのだ。夜10時ごろには、花火も落ち着き始め、人影は地に落ち、明月が空に現れ、人々は笑い興じながらそれぞれに去っていく。
市では、様々な食べ物が売られているが、元宵が多く見られる。これがこの季節の風物ともいえる。
また金魚を売る姿も見られる。ガラス瓶に金魚をいれ、その影を動かしている。大きさが変わって見える。これは他の場所では見られない。
『日下旧聞考』によれば、
明代の提灯祭りは、東華門王府街の東と崇文街の西まで、二里にわたり、その南北に店が出た。すなわち今の灯市口である。提灯市の日には珠玉から日用の小さなものまで、あらゆるものが売られていた。店は規則正しく、碁盤目状に並んでいたが、向かい合って二階建ての店があった。そこには毛氈が敷かれ、簾幕がかけられており、宴席が設けられるようになっていが、一日あたりの料金は数百緡(びん)で、貴族など金持ちが借りた。提灯は、ガラス、ガラス糸、紗、膠板などなどがあった。音楽も鳴り響き、雑技が演じられた。花火は棚や、箱に仕掛けてあるもの、葡萄棚、真珠簾などといったものがあった。一月八日が初日で、十八日まで催された。
つまり期間は現在のように五日間ではなく、当時は十日間だった。
さまざまな、物があつまる市であるいうことについては、当時は提灯と市が一緒だったが、現在では、提灯は内城に、市は外城の琉璃廠と分かれて催されるようになったということだ。
訳注:
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