2. 歴史-1


1.先史時代

大昔、杭州一帯は海の中だったといいます。蘇東坡は「杭之為州、本江海故地。」と杭州在任中に言っていますし、南宋の有名な詞人・周密は大昔の遺跡を見て「今之城市、当在深水底数十丈矣。」と言ったといいます。

それから相当の時間がたち、今から4,5千年前の新石器時代になるとこの土地に原始人の生活の跡が見られるようになります。それが「良渚文化」です。老和山遺跡が市内から一番近い遺跡で、浙江大学の校舎建設時に数多くの文物が発掘されたそうです。また杭州駅近くには水田[田反]遺跡では稲作が行われていたようです。また簡単な舟が見つかっていて、舟が交通の手段に使われていたと推測されています。時代が遡ると木工竹細工の日用品なども見られるようになり、このような生活が春秋戦国の時代まで続いていました。

2.先秦時代

中国の時代区分では、春秋戦国時代を「先秦」といいます。

さて、夏の時代、いわゆる伝説の時代の「大禹治水」ころ、中国は九州に分かれていました。その時代、杭州は揚州に属していました。この揚州は現在の揚州のことではなく、揚子江の南の水郷一帯を指していました。

伝説によれば、大禹による治水が成功、諸侯が会稽山に会したとき、諸侯は杭州の場所で船を下りたといいます。古文では「舎杭登陸」と書かれています。杭は、本来船で渡る、または渡し舟という意味なのです。航の文字に近いと考えてください。クイというのは、国字、つまり日本風の読み方で、そう読む場合には棒のようなものをさしますが、中国語では杙の漢字を使います。解説が長くなってしまいましたがこんなわけで、杭州の古称は「禹杭」と言うのです。

その後、春秋時代、この地は越の国の領土でした。越の国というと、「呉越同舟」、「臥薪嘗胆」などの話しで有名です。呉の国と越の国は隣国であったため、その関係は「呉越同舟」と言う成語になるほど険悪でした。越王・句践は呉との戦に破れ、臣下・范蠡の言葉に従い会稽山で復讐を誓いながら時を待ちますが、その会稽山は杭州の東、紹興市の近くです。ちなみに呉の国は現在の蘇州を都とした国です。そして越の都は会稽(今の紹興市)にありました。

そういえば、傾国の美女・西施は句践が復讐のため、「臥薪嘗胆」の時期に呉王・夫差に送り込んだ美女でした。

「臥薪嘗胆」の後、句践は呉の国を下しますが、戦国時代に到り、楚の国に滅ぼされ、楚の支配下に入ります。

 

一口メモ <傾国の美女>

国を傾けるほどの美女、傾国の美女は古代中国において4人。妹喜、妲己、褒ジ、西施です。

・妹喜(ばっき)
夏王朝の最後の傑王の寵妃。有施氏の美人でその噂を聞いた桀王は有施氏を攻め、彼女を得た。絹を裂く音が好きだったとか。そのため王が諸侯に高価な絹を献上させ、その絹を裂かせて、音を聞いて喜んだ……という話しは本当か嘘か。とにかく彼女を溺愛したため国を滅ぼしたというけれど、まそんな事も一因だったのでしょう。だって傑王は「酒池肉林」で有名な王ですからね。

・妲己(だっき)
商最後の王・紂王の寵妃。王は彼女の関心を得るため悪逆非道な事を平気で行ったといわれています。灼熱の柱を抱かせる「炮烙の刑」を見物したいと王にいって、それを見ながら酒を飲んだという残虐非道の女性といわれていますが、どこまで本当か。王が非道だったのか、彼女が非道だったのか……彼女が悪女とされたのは封神演義が一因とも思えるのだけれど。

・褒姒(ほうじ) 
周最後の王・幽王の妃。笑わない事で有名だった美女。絶対に笑わないなずだった彼女は、誤って上げられた烽火をみて集まった諸侯を見て初めて笑った。喜んだ幽王はそれを続け、終いに諸侯達は烽火を見ても参内しなくなった。危機に瀕し烽火を上げたとき王は諸侯を集めることが出来ず国を滅ぼしたと言われている。オオカミ少年のお話しみたい。

・西施(せいし)
越王・句践が復讐のため、呉王・夫差に送り込んだ美女。ねらい見事的中、句践は復讐を果たす。句践の臣下・范蠢の恋人であったという伝説もあります。夫差は西施の「ああ、今私を抱いている人が覇を収めた方ならどんなに幸せでしょう……」という一言で出兵を繰り返すようになったという。そして、滅亡へ一直線。正史に名前がないのは、やはり政略で送りこまれた美女だったからか、それとも彼女の位によるものか……?

ちなみに以上4名、西施以外は、史記などの正史にその名を見つける事が出来ます。

 


<<BACK<< TOP >>NEXT>>

 

中国歴史・習慣・風俗の雑記帳「ぽんずのページ」