3. 歴史-2


3.秦の時代

戦国時代の後、秦の始皇帝が中国を統一します。そして全国を36の郡(後に40郡まで増えますが)に分けました。そして呉、越の国あたりは会稽郡となりました。(今で言うの江蘇省の揚子江の南の部分と上海、浙江省全域)会稽郡の下には26の県があり、武林山ろくにその一つ銭唐県が置かれます。その銭唐県が杭州の前身です。

始皇帝は全国統一の基礎を固めるため、咸陽から会稽までの皇帝専用の道を作らせ、東南巡行に向かいます。これが秦始皇三十七年(B.C.210年)十一月のこと。江蘇省江寧県あたりから銭唐に入りました。浙江(今の銭塘江)は銭唐から渡る事が出来ず、西へ戻り余杭で川を渡り、会稽山に登ったと史記に書かれており、これが歴史書おける杭州(銭唐)の初めて記載になります。

4.漢の時代

前漢(中国では西漢といいます)の時代にも、銭唐は揚州刺史部の会稽郡に属していました。しかし武帝の時代に郡の治安関係の役所(西部都尉)が置かれるなど重要性は次第に高まってきました。武林山ろくには前漢中期の墳墓が発見されており、埋葬されていたのは朱楽昌という武官で西部都尉の責任者であったと推測されています。

前漢と後漢の間、王莽の「新」の時代に、銭唐は「泉亭」と一時呼ばれますが、後漢に入り、元の名前に戻ります。

後漢(中国では東漢)の順帝の時代、南方の経済は発展、銭唐江の輸送交通も始まります。そして河を境に江北が「呉郡」、江南が会稽郡と以前の会稽郡が二つに分かれました。そして銭唐県はそれ以降、呉郡に属する事になります。

銭唐県がどこにあったかについては、諸説があり、確かな事が言えませんが、南は五雲山のあたり、北西は粟山石人嶺から西渓、東は宝石山ろくというのが一致した見解です。(なこといっても地図でも良くわからないじゃない(-_-;))

つまり霊隠、天竺などの山々このあたりが漢の時代には武林山と呼ばれていて、そのあたりに数千戸が住んでいる中小規模の山間の県であったと考えられています。(つまりは西湖の西のほうってことなのね)

 

一口メモ <漢>

漢の時代は、王莽の「新」をはさんで「前漢」と「後漢」に分けられますが。この言いかたは中国の正史である漢書、後漢書から来ているようです。

しかし、中国では「前漢」「後漢」という言い方はしません。「西漢」「東漢」と呼びます。これは都の位置から来ている呼び方です。「西漢」は都が長安、そして「東漢」は都が洛陽にありました。長安と洛陽の場所関係で覚えていただければ覚えやすいかと思います。

 


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中国歴史・習慣・風俗の雑記帳「ぽんずのページ」