4. 歴史-3


5.三国、両晋、南北朝時代

この時期、中国の北部では戦が相次ぎ、戦を避けた人々が揚子江の南にやってくるようになりました。そのため銭塘江流域は次第に発展、船着場も増えていきます。その船着場の近くに人々は居を定めるようになり、銭唐県は下流の重要な町になりました。

しかしこの土地は、潮の逆流による水害に悩まされていました。そのため歴代の役人たちは堤防工事を最優先させていたのです。

後漢末期の銭唐県の県令であった劉道真が銭唐県の自然と沿革について書いた「銭唐記」という書物がありますが、これにこんな話しが記されています。

漢の末期、華信という田舎の役人がいた。

華信は人々を募って川辺に土を運ばせた。土一石を運んだら、銅銭1000をもらえるという事で十日間の間にたくさんの人たちがやってきた。

堤がほとんど出来あがりかけたころ、ずる賢い役人は金をやらないと言い出した。土を運んできた人々は怒り、土をそこに放り投げて帰っていった。

こんなふうに土は積まれ、堤防が出来たので「銭塘」と呼ばれるようになった。

この堤防が作られ、町は潮の逆流から守られ、発展を続けていくことになります。

南北朝の時代に到り、このあたりは南斉という国でした。南斉の永明三年(485年)唐寓らによる農民反乱が起きます。明くる年農民軍は銭唐を攻め、県令・劉彪は敗走します。唐寓は銭唐に「興平」という名の政権を樹立します。

それからしばらく後、南朝の蕭梁(503-557)に銭唐県は「臨江郡」に格上げされます。そして陳の時代(558-589)には銭唐の名前が復活、「銭唐郡」となり、銭唐県は郡役所の所在地となるのです。このころの銭唐県の場所は、銭塘江沿岸から鳳凰山麓の一帯にまで拡大していました。

 
一口メモ <南朝>

漢の時代の後、三国への分裂そして南北朝へと中国は混乱した時代が続きます。さて、この時代杭州の辺りを支配していた王朝をご紹介しましょう。

この時代に建業(現在の南京)に都を置いたのが、呉、東晋、宋、斉、梁、陳の6つの王朝で、合わせて「六朝」と言います。

222-280 孫権が建国。豪族の争いで衰え、4代で晋に滅ぼされた。
東晋 317-420 司馬睿が晋が滅びて後都を洛陽から移し建国。
この時期江南の開発が進み貴族文化を形成。
420-479 東晋の武将・劉裕が禅譲で建国。
北魏に圧迫されていた。
479-502 宋の武将・蕭道成が禅譲により建国。
502-557 斉の宗室・蕭衍が禅譲により建国。
南朝文化の最盛期にあたるが、西魏の圧迫に苦しむ。
557-589 梁の武将・陳覇先が禅譲により建国。
隋に滅ぼされる。

このうち宋、斉、梁、陳を南朝といいます。ちなみに北朝は五胡十六国時代をへて、北魏、東魏、北斉、北周と続き、隋が出現するに到ります。南朝が貴族文化が栄えたのに対し、北朝は君主権が強かったようです。

【参考】:孫堅がこの辺りの盗賊退治をした話が史記にかかれています。「孫堅伝」 をご覧ください

 


<<BACK<< TOP >>NEXT>>

 

中国歴史・習慣・風俗の雑記帳「ぽんずのページ」