5. 歴史-4


6.隋

隋の時代、中国再び統一の時代を迎えます。そしてこの時期に銭唐つまり広州は一つの転換期を迎えるのです。

まず、制度の変化で、銭唐郡がなくなり「杭州」となりました。そのために銭唐が杭州の属県になったのです。この時代から歴史書に「杭州」という名前が登場する事になります。そしてしばらく後、州知事の所在地が余杭から銭唐に移されます。このとき銭唐県はあたりの町を吸収拡大します。

そして、この時期、現在の杭州の基礎となる大きな出来事がありました。

開皇十一年(591年)楊素という大臣が鳳凰山のあたりから周囲三十里九十歩の州城を築かせます。町が城壁で囲まれた事により安全になり、さらなる経済発展が見込まれるようになったのです。

そしてもう一つ、煬帝の大業六年(610年)に北京と杭州をつなぐ大運河が竣工しました。全長4000里、涿郡(現在の北京)と余杭(現在の杭州)をつなぐこの運河は、海河、淮河、黄河、揚子江、銭塘江をつなぎ、中国の南北を結ぶ大動脈となるのです。遡れば、呉王の夫差が揚子江と淮河をつなぐ工事を行いましたが、五大河川を結んだ今回の運河と比較にはなりません。これ以外に煬帝は江南運河も開通させました。江南運河は言って見れば皇帝の巡幸用の、京口(現在の江蘇省鎮江)から、蘇州、嘉興を経て杭州に到る運河です。全長800里、川幅は10丈を越えていました。特に嘉興から杭州までは二つの経路があり、正道、北道と名前がつけられました。

杭州はこの大運河の開通により、南方の主要都市として栄えていくのです。

漢字解説

タク郡: 
一口メモ <大運河>

大運河は全長1794kmでいくつかの部分に分かれています。

通惠河 北京市内 - 通県
北運河 通県 - 天津
南運河 天津 - 山東省臨清
魯運河 臨清 - 山東省台児荘
中運河 台児荘 - 江蘇省淮陰
里運河 淮陰 - 江蘇省揚州
江南運河 江蘇省鎮江 - 杭州

また、開通の時代別にこのようにも呼ばれています。

文帝/開皇四年(584年)開通 広通渠(黄河 - 長安)
文帝/開皇七年(587年)開通 邗溝(淮河 - 揚子江)
煬帝/大業元年(605年)開通 通済渠(黄河 - 淮河)
煬帝/大業四年(608年)開通 永済渠(黄河 - 天津)
煬帝/大業六年(610年)開通 江南河(揚子江 - 杭州)

 


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中国歴史・習慣・風俗の雑記帳「ぽんずのページ」