6. 歴史-5
7.唐 唐の時代、杭州は江南東道に属しますが、その後隷浙江西道に属します。粛宗の時代(756-763)杭州には浙東防御使がおかれ、昭宗の時代(889-904)に大都督府に昇格、重要な町となります。
杭州は唐の時代に急速に発展、中国の主要都市に名を連ねるようになるのですが、それには繊維産業(絹)と造船業の発展に負うことが大きかったようです。特に綾は白居易の詩の中でも絶賛されるほどの品質でした。造船では船長10mの船を作っていました。この時代、船といえば蘇州、揚州が有名でしたが、それに引けをとらない船を製造していたようです。杭州の店の数は3万を数えるようになり、収められた税金は全国の4%を占めるに至りました。
経済の発展につれて、杭州の町の規模も大きくなっていきます。かつては銭塘江の沿岸に広がっていた町が、大運河にそって来たに延び、武林門あたりにまで拡大します。隋の時代には1万5千戸だった家の数も唐の中期には8万6千戸となり、全国でも指折りの大都市となります。
この時期、町の発展に尽くした役人たちも忘れてはなりません。特に現在も地名として残っている都市開発を行った有名な役人達を挙げましょう。
袁仁敬 この人は開元十三年(725)、玄宗皇帝によって杭州刺史(杭州の地方長官)に任命されます。3年間の在任期間中に、洪春橋から霊隠、天竺にかけての9里もの道沿いに松の木を植えさせ、それは「九里松」と呼ばれるようになりました。これらは防風そして雨を防ぐのに大変役立ったと言います。元の時代には銭塘十景に数えられたとのこと。現在にこの呼び名は伝わっています。
李泌 代宗時代(763-779)の杭州刺史です。杭州は海に近いこともあり地下水は飲むに適しておらず、常に飲み水に悩まされてきました。李泌はこの飲み水の問題を解決した人です。彼が目をつけたのは西湖の水。これを杭州に引いてきたのです。地下に水道をつくり、町のなかに井戸を作りました。相国井、西井(化成井)、方井(四眼井)、白亀井、小方井(六眼井)、金牛池がそのうちの大きなものです。水問題が解決した杭州はさらに発展する事になります。現在でも解放路の井亭橋口に相国井のあとが残っています。
白居易 この人は詩人としても有名ですが、長慶二年(822)に杭州刺史として任命されました。そして農地の灌漑を行いました。目をつけたのが銭塘湖です。銭塘湖は言ってみれば現在の西湖なのですが、面積は現在の2倍ありました。彼はこの大きな湖を堤防を作って二つに分けたのです。西の部分が現在の上湖(現在の西湖)。そして東が下湖です。水は出来るだけ上湖にためられるようにして、あわせて堤防に水門を作り水位が出来るようにて必要なときには水が放出されるようになっていたといいます。
白居易を記念してこの堤防は「白堤」と呼ばれるようになり、現在では西湖十景の一つの景観となっています。白居易は3年の任期を終え杭州を離れますが、杭州への思いは深く、彼の残した詩のなかからもうかがわれます。
一口メモ <白居易の詩> いくつか白居易の杭州を歌った詩をご紹介!と思うのですが、あまりに多くて……と言うわけでとりあえず、とっても有名な詩をご紹介。
憶江南詞三首 江南好
風景舊曾暗
日出江花紅勝火
春來江水緑如藍
能不憶江南江南憶
最憶是杭州
山寺月中尋桂子
郡亭枕上看潮頭
何日更重遊江南憶
其次憶呉宮
呉酒一杯春竹葉
呉娃雙舞醉芙蓉
早晩復相逢憶 江南 詞 三首 江南は よし
風景もとより、かつて、そらんず
日、出れば、江花、紅にして、火に勝り
春、来りなば、江水、緑にして、藍の如し
よく、江南をおもわざらんや江南をおもう
もっとも おもうは、これ、杭州
山寺の、月中に、桂子を尋ね
郡亭の枕上に、潮頭をみる
いつの日にか、さらにかさねて、遊ばん江南をおもう
その次に、おもうは、呉宮なり
呉酒、一杯の、春竹葉
呉娃、双舞、醉芙蓉
早晩、また、あいあわん江南は良いところだ。景色はもちろん良いし、思い出の数々あるところだ。あの眺めは素敵だ。ここが良いとそらんじているほど、思い出は深い。日があたってくると、江花は紅になって火より赤く、春になれば江水は緑だけれど藍のようだ。江南を思い出さずにはいられない。
江南をおもう。もっとも思うのは杭州。天竺寺で、月にあるという桂の木の実を探してみたり、官舎から満潮時の風景を見たりした。また一度遊びたい。
江南をおもう。次に思い出すのは呉の宮殿。呉の銘酒、春竹葉を一杯飲みながら醉芙蓉のような呉の美人の並んで舞う姿を見たいものだ。いつかぜひ、またあの美人にあいたいものだ。
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