7. 歴史-6
7.呉越国 呉越国という名前は、皆さんにもなじみがないとおもいます。呉越と言うと、どうしても春秋時代の呉越の攻防、臥薪嘗胆などを思い出してしまいますが、呉越国は、二つの国の名前ではなく、一つの「呉越」という国の名前です。
907年、朱温により唐最後の皇帝昭宣帝は廃され、梁の国が興きます。黄河流域を支配したこの梁は歴史上では「後梁」と呼ばれています。中国の北部はこれから5つの国が興亡する時代を迎えるのですが、この周辺には10カ国が存在しました。その一国が呉越国です。
呉越国は軍閥勢力の銭鏐が建てた国ですが、唐末期から話をはじめる事にしましょう。
皆さんもご存知のように、世界に名だたる唐王朝は、玄宗の華やかだった時代のあと急速に衰え始めます。その始まりとなるのが安禄山の乱です。これがきっかけで唐は大混乱に陥るのです。この混乱に乗じて力をつけてきたのが地方勢力です。それは藩鎮という勢力に発展して行きます。藩鎮は地方に置かれた節度使を中心とした軍事組織でしたが、次第に地方の軍事、財政、政治を握り軍閥として力をつけてきたのです。
唐が滅亡に追い込まれる黄巣の乱で活躍、力をつけた一つが銭鏐が建てた呉越国でした。その後928年に後梁から正式に封ぜられ銭鏐は呉越国王となります。浙江省と江蘇省の南部(蘇州より南)そして福建省の一部を支配していました。都は西府(杭州)、下に十三州一軍がありました。杭州が都にはじめてなった歴史的な出来事です。そしてこの時代は後に「東南形勝第一州」といわれました。
呉越国が支配した地域についてちょっと復習してみましょう。この銭塘江の両岸は二つの行政府に分けられていました。
・後漢・六朝時代: 西北岸=呉郡、東南岸=会稽郡 このとき杭州は呉郡に属していた。
・唐代末期: 江南東道(中心地は蘇州) 東南岸は越州(現在の紹興)が中心地。
と銭塘江の西北岸側のはずれの場所ということもあり、呉越の国の都になるまでは蘇州などに及ばない町だったのです。呉越国の都になったのは、銭鏐の生まれた町そして支配の拠点だったからでしょう。呉越を興す前に銭鏐は2度杭州を拡張しています。事実上唐の末期にこの地域を支配していたのは銭鏐でした。この二度の拡張が南宋の都・杭州の基礎になりました。城の周囲は七十里、10の城門がありました。そして碁盤目状の道も整備されました。
また潮の逆流(河津波)の害から杭州を守るための堤防建設工事も行われました。これは六和塔から艮山門に至る堤防で、後に「銭氏捍海塘」、「銭氏石塘」と呼ばれるようになりました。
五代十国といわれるこの時代、中国国内は分裂していたものの、諸国は貿易に熱心で、経済活動は壮んに行われていたようです。呉越国は日本や高麗とも貿易関係を結んでいたようです。
この地を支配していた銭氏は仏教の保護者でした。呉越国が支配していた80年の間に、西湖周辺には霊峯寺、雲栖寺、六通寺、昭慶寺など300の寺院が建てられました。また宝俶塔、六和塔、白塔そして白蛇伝で有名な雷峰塔もこの時代に立てられたものです。
分裂の時代は50年以上続きましたが、分裂はしていても経済的に安定していたこの時代、商人たちは統一国家を望みはじめます。北方では後周が政権を取り政治的にも安定してきました。それが時代の必然性だったのでしょう。中国は再統一への道を歩みます。
一口メモ <雷峰塔> 呉越時代に建立された雷峰塔は、白蛇伝で有名ですが、白蛇を封じ込めるために立てられたわけではありません。(まさか皆、その伝説を信じているわけではないと思いますが)。
この塔は975年、呉越王銭弘俶が黄妃が男の子を産んだのを記念して立てられたため、「黄妃塔」と言う名前もあります。また西関の外にあるので「西関」と言うなもあります。「雷峰塔」というのは西湖南岸浄慈寺前の雷峰にあるためそう言う名がついたそうです。
この塔、明の嘉靖年間に倭寇によって焼かれたことがあるというそんな話も残っています。
しかしこの有名なとうは1924年9月25日に崩壊しました。人々が白蛇伝にまつわる「鎮妖磚(妖怪を鎮めた煉瓦)」を少しずつ持ち去ってしまったためだといわれています。1000年と言う時間は驚きですね。それで塔が崩壊してしまうのですから。
そのご、再建計画がもちあがり、昨年再建されたとか。
ちなみに、「雷峰夕照」は西湖十景のひとつです。
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参考:呉越国地図
郭抹若/中国史稿地図集より
わかりにくいので紫で濃く国境を書いてみました。
呉越を囲んでいるのが、南唐です。