参考文献 - 臥薪嘗胆


<臥薪嘗胆>

復習ということで、会稽山の名前が出てくるお話し、「臥薪嘗胆」を。今回は十八史略のほうでご紹介。

闔廬挙伍員謀国事。員字子胥楚人伍奢之子。 闔廬伍員を挙げて、国事を謀らしむ。員字は子胥、楚人伍奢の子なり。
奢誅而奔呉。以呉兵入郢。 奢誅せられて呉に奔る。呉の兵を以ゐて郢に入る。
呉伐越。闔廬傷而死。子不差立。 呉越を伐つ。闔廬傷つきて死す。子の夫差立つ。
子胥復事之。夫差志復讎。朝夕臥薪中、出入使人呼曰、 子胥復た之に事ふ。夫差讎を復せんと志す。朝夕薪中に臥し、出入するに人をして呼ばしめて曰はく
「夫差而忘越人之殺而父邪。」 「夫差、而越人の而の父を殺ししを忘れたるか。」と。
周敬王二十六年、夫差敗越于夫椒。 周の敬王の二十六年、夫差越を于夫椒に敗る。
越王勾践、以余兵棲会稽山、請為臣妻為妾。 越王勾践、余兵を以ゐて会稽山に棲み、臣と為り妻は妾と為らんと請ふ。
子胥言、「不可。」 子胥言ふ、「不可なり。」と。
太宰伯 嚭受越賂、説夫差赦越。 太宰伯嚭越の賂を受け、夫差に説きて越を赦さしむ。
勾践反国、懸胆於坐臥即仰胆嘗之曰、 勾践国に反へり、胆を坐臥に懸け、即ち胆を仰ぎ之を嘗めて曰はく、
「女忘会稽之恥邪。」 「女会稽の恥を忘れたるか。」と。
挙国政属大夫種而与范蠡治兵、事謀呉。
 
国政を挙げて大夫種に属し而して范蠡と兵を治め、呉を謀るを事とす。
 
太宰 嚭、譖子胥恥謀不用怨望。 太宰嚭、子胥謀の用ゐられざるを恥ぢて怨望すと譖す。
夫差乃賜子胥属鏤之剣。 夫差乃ち子胥に属鏤の剣を賜ふ。
子胥告其家人曰、「必樹吾墓梓。梓可材也。 子胥其の家人に告げて曰はく、「必ず吾が墓に梓を樹ゑよ。梓材とすぜきなり。
抉吾目、懸東門。以観越兵之滅呉。」 吾が目を抉りて、東門に懸けよ。以て越兵の呉を滅ぼすを観んと。」
乃自剄。夫差取其尸、盛以鴟夷、投之江。 乃ち自剄す。夫差其の尸を取り、盛るに鴟夷を以てし、之を江に投ず。
呉人憐之、立祠江上、命曰胥山。 呉人之を憐れみ、祠を江上に立て、命けて胥山と曰ふ。
越十年生聚十年教訓。周元王四年、越伐呉。 越十年生聚し、十年教訓す。周の元王の四年、越呉を伐つ。
三戦三北。夫差上姑蘇、亦請成於越。范蠡不可。 三戦ひて三たび北ぐ。夫差姑蘇に上り、亦成を越に請ふ。范蠡可かず。
夫差曰、「吾無以見子胥。」為幎冒乃死。 夫差曰はく、「吾以て子胥を見る無し。」と。幎冒を為りて乃ち死す。

 春秋時代の末期、闔閭(こうりょ)を王とする呉の国は土地も肥沃だったため、たちまち勢力を広げました。その後、句践(こうせん)を王とする越の国が勢力を広げてきたため、闔閭は越の国を攻めました。ところが、闔閭は逆に越軍に破れ、その時の傷が元で死んでしまいました。その後、呉の国を継いだのは、太子の夫差(ふさ)でした。

 夫差は父のかたきをとるというその思いを忘れないよう、毎日薪の上に臥して痛さをこらえ、自分の部屋に出入りする者には、「闔閭を殺したのは句践であることを忘れまいぞ」と言わせるようにしました。

 数年が経ち、今度は句践が呉の国に攻めてきました。しかし、夫差はこれを破り、句践は会稽山に逃げ込みました。句践は、再起のためには恥をしのんで、一時降伏するしか道はないという臣下の范蠡(はんれい)の言葉を聞き、夫差に許しを願いました。

 しかし、夫差の臣下の伍子胥(ごししょ)は「句践を許してはなりません」と強く諌めました。そこで、句践は大臣の伯嚭にワイロを贈り、やっとその口利きで許してもらえ、越に帰ることが出来ました。

 その後、句践は部屋に苦い胆をつるし、毎日それを嘗めてこのときの復讐を心に誓いました。

 こうして、句践は国の回復に力を注いでいましたが、夫差の方は越の国には目もくれずに、北方に勢力を伸ばそうとしていました。伍子胥はこんな夫差を諌めたのですが、それが面白くない夫差は伍子胥に自決を告げたのでした。

 伍子胥はその使者に対して言いました。

「私の墓の近くに梓の木を植えよ。その木で呉王の棺を作るためである。また、私の目をくり抜いて、東の門の上に掲げよ。越の国が攻め込み、呉を滅ぼすのを見届けるためである。」

 こうして、伍子胥は自決しました。

 さて、いよいよ国力を回復した越の国が呉に攻め込んできました。やがて、夫差は越に降伏することになり、使者を送って命乞いをしました。しかし、句践の臣下の范蠡が夫差を許さないようにと強く主張したため、とうとう夫差は自決し、呉の国は滅びました。

 


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中国歴史・習慣・風俗の雑記帳「ぽんずのページ」