北京に暮らして
 
34:北京と私 

2003/02/24

最近、ぽんずさんの経歴など……とのご質問を受けるので、
簡単に私の見てきた北京について、書いてみたい。

―― はじめて北京に来たのは1983年9月。

まだまだ、人民服が見かけられた時代だ。
小さな屋台など個人の経営が認められ、個体戸という言葉が出てきた時代。
田舎の公立女子高を卒業、北京に留学してしまった。
女性の白いスカートや、ワンピースが流行った。
シースルーで、見ているこちらの方が恥ずかしい気がした。

84年には建国記念パレードも見に行った。
鄧小平の閲兵、
そして 「小平ニンハオ」と書かれた、北京大学の学生の横断幕が印象的だった。

85年 2年間の語学研修のあと、歴史を学ぶべく大学の本科へ。
大学に行った当初も、歴史教科書問題で日中間はよくもめていた。
学内ではデモもあった。

そのころから、北京はどんどん発展していった。
夏休みに一時帰国をするたびに、変化が目に付いた。

―― そして、89年の天安門事件が起きる。

4月5日清明節、胡燿邦を偲んで学生達が、人民英雄記念碑のあたりに集まっ ていたのを、通りがかりに見たことを覚えている。
それがあの悲劇の始まりになるとはそのときは思いもしなかったけれど、
かつて起きた天安門事件を連想していた。

その後一時帰国、北京に戻り、90年6月に日本に帰るが、
そのとき、「中国は、発展と停滞を定期的に繰り返している」 という、
社会主義経済についての授業での先生の言葉を思い出した。

停滞期に突入した北京を離れた。

―― そして再び北京を訪れたのは97年7月、香港返還の直後。
香港返還に沸き返る北京は、私の知っている北京ではなかった。
なつかしの並木道は、私が北京を訪れる数日前に、道路拡張のために切り倒さ れた。 この時は2週間ちょっとの滞在だったが、北京のあまりの変化に驚きつつも、
北京を離れる前に、話題になった地下鉄がまだ開通していないことに
「中国」 を感じていた。

―― そして次の年の98年3月に夫の転勤でまた北京にやってきた。
(その間の6年間は、アメリカに暮した)

生活してみて、北京の変化に驚きも戸惑いもあった。
停滞期の北京しか知らず、急成長を続けている北京の真っ只中にやってきた私は、
北京について、そして中国について、イチから勉強をし直さなくてはいけ ない気がした。

私が勉強した中国は、どこにもない気がした。
皆が使っている言葉も、違うような気がした。
配偶者を「愛人」という、そんな言い方をして、田舎から出てきた気分を味わ い、
「我先生」という言い方をするようになった。
私はいつの時代にいるのかなぁ……と不安に思いつつ。

―― そして今も、二人の子供を育てながら北京で暮している。

成人を北京で迎え、30をアメリカで過ごし、
そして40は、また北京で迎えるのかもしれない。

オリンピックまで、どんどん北京は発展するだろうし、
私も、オリンピックまで北京にいないとしても、
その発展を目の当たりにして生活をしていくだろう。

 
このコーナーは、Ojinさん主宰の≪WEB_熱線≫=市井から見た中国=というメールマガジンに掲載されたぽんずの雑文を転載しています。

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(c)中国歴史・習慣・風俗の雑記帳「ぽんずのページ」2009