15. 杭州の歴史-13 清、その後


11.清

その後、明から清に時代は移りますが、基本的に行政システムなどに変化はありませんでした。杭州は明の時代と同じく、杭州府で、浙江行省の省都でした。

杭州のこの時代の繁栄と皇帝たちとは密接な関係がありました。歴代皇帝はなんども巡幸で江南地方を訪れます。特に康熙帝は在位61年間の間に5回、乾隆帝は在位60年間の間に6回訪れています。また順治七年(1648)には西湖の側に「満城」と呼ばれる、軍の駐屯所が設けられました。杭州城は清の時代になってからも変りませんでしたが、北に大きな駐屯所が出来た事で杭州の人達のプライドが傷つけられた事は確かでしょう。

清朝、特に康熙帝から乾隆帝の時代に、西湖では西湖十景の石碑が建てられたり、新たに庭園が作られたり、浮島を作ったりと、大掛かりな運営がなされました。

経済的には、明の時代を引き継ぎ、絹織物業が盛んでした。

しかし、清朝が衰退するにつれ、杭州の経済も衰えてきます。運河は時代を経て浅くなり運行に支障をきたすようになり、海外貿易は海賊(日本人だと言われています)の被害にあうということも原因の一つです。阿片戦争の後、杭州も半植民地化されて行きます。特に日清戦争の敗戦後、下関条約(中国語では馬関条約といいます)により、杭州は貿易港として開港を迫られ、また拱宸橋一帯に日本租界が作られます。

清朝末期に起きた太平天国の乱では1860年1861年の二度にわたり、杭州は攻撃を受け陳炳文が杭州を27ヶ月間支配しました。しかし、浙江巡撫・左宗棠らの反撃に遭い同治三年三月三十日夜、杭州を撤退します。

12.清の後

その後、時代は激動の時代に突入します。辛亥革命により清朝は倒れ、日本の侵略、国共内戦と再び平和をとり戻すまで、長い年月を要します。

動乱期に命を落とした多くの革命家達、 秋瑾、徐錫麟などがこの地に眠っている事も加えておきましょう。

辛亥革命後、杭州府は、銭塘県と仁和県を加え、杭県と名を変えますが、1927年杭州市となります。1909年からは鉄道も建設され、鉄橋もかけられますが、経済の中心地は南京、上海へと移りました。革命後、新たに、町は整備され、現在は西湖を中心とした観光都市として世界にも有名な都市となっています。

 

一口メモ <南巡>

康熙帝、乾隆帝は上述のように頻繁に南巡を行いましたが、その様子は南巡盛典に残っています。各地への巡幸は支配力強化のためとも言われていますが、康熙帝、乾隆帝とも江南地方が好きだったと伝えられています。また乾隆帝は南巡に母君である皇太后も同行させています。また、北京に蘇州街まで作ってしまったほどです。

「南巡盛典」を写真で見たことがあるのですが、本当に大掛かりな巡幸だったようです。在位期間などを考えると平均して10年に1度ですが、この数は南巡だけですから、他の地方への巡幸も合わせると、大変なものです。

乾隆帝時代の末期、すでに清は衰退期に入ってしまいますが、華やかな巡幸も一因なのかもしれませんね。


南巡盛典 (部分) (門は午門)

 


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中国歴史・習慣・風俗の雑記帳「ぽんずのページ」