14. 杭州の歴史-12 明
10.明 至正二十六年(1366)朱元璋は大将・常遇春を杭州に責め込ませます。3ヶ月の激戦の後、東青門からようやく杭州城に入城する事が出来ました。このことから後にこの門は慶春門と呼ばれるようになります。そして1368年明王朝が中国を支配すると、杭州路は杭州府となります。洪武十四年(1381)周辺の11州をまとめる浙江行省がおかれ、杭州が省都となり、現在に至ります。このころの浙江行省は面積は1/3程度ですが、その部分についてはほぼ現在の浙江省と同じ省境が引かれています。
もちろん、元から明にいたり、政治的な重要性は小さくなりました。しかし中国南東部の主要都市の一つでした。特に絹織物産業は発展を続け、「絲綢之府」と呼ばれるようになります。北宋の時代には織務という杭州などの絹を売買する部署が杭州に設けられ、宮廷に献上されるようになりました。明の時代には織染局が置かれ、そこには500もの織機があったといいます。この織機ですが、皇帝の着る龍袍、つまり龍の模様を織り込むための織機は1丈5尺もあり、二人がかりで織り上げたそうです。杭州で一年間に織られた龍緞は3万匹だったそうです。民間の織物工場も数多く作られました。杭州の絹は主要な物だけでも10数種類あったといいます。年間に収められた税は1377年には25000匹を超えていました。それは全国からの税の1割に相当しました。
城東の忠清巷、通聖土地廟付近が杭州絹織物発祥の地と言われています。唐の大臣、ちょ遂良の子孫が揚州から杭州忠清巷に機織の技をもち移り住んだと、明の時代の書物に書かれています。その後この一帯で絹織物業がさかんになるのです。明の時代には、子の一帯には多くの機織場が軒を連ね、多くの錦が織られていました。城北の張紗巷は明から清にかけて機織場が集まっていました。この張紗巷という地名の由来ですが、崇禎年間に蒋昆丑という職人がこの地にいて、彼の織った絹は紙のように薄く、軽かったと言います。この絹を買い求めるために遠くからも人々がやってきて、商売もはやりました。そしてこのあたりは蒋紗巷と呼ばれるようになったのですが、蒋がいつのまにか張と発音されるようになって今では張紗巷となりました。城中の相安里には大きな織り場があったといいます。
西湖の歴史でも書きましたが、この時代にも大規模な西湖の浚渫工事が行われました。弘治十六年(1503)の楊孟瑛によるものです。「自是西湖始復唐、宋之旧」と史書に書かれた工事を経て、西湖は再び景勝地によみがえりました。これ以外にも明の時代にも多くの庭園がつくられ、多くの旅人達でにぎわうようになりました。
一口メモ <花機> 龍袍は、皇帝の着物です。明の十三陵の博物館などでも見る事が出来ますが、龍の模様が織り込まれています。その龍袍を織るための機械が「花機」です。上にも書きましたがとても大掛かりな織機で、二人がかりで操作をしたようです。
上の絵は、明の時代宋応星が書いた「天工開物」という産業技術の図解説書です。この本については高校の世界史でも勉強したと思いますが、農業技術から砲弾の作り方までいろいろな技術について図入りで説明がなされています。
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