13. 杭州の歴史-11 元


9.元

13世紀にはいると、中国の北方地域にモンゴル帝国が興ります。1234年には金を滅ぼし北部中国を支配、1276年には南宋の都臨安が攻撃を受け、1279年に南宋は滅びます。元の支配下で臨安府は杭州路と名前を変えます。杭州路は浙江行省の省都でした。この時代の浙江行省は現在の浙江省、福建省と江蘇、安徽の江南部分、そして江西の湖東部分をいいます。

元は、全国を支配するために各町の城壁の破壊を命じました。そのため杭州城の城壁は元の時代には存在しないのです。再び城壁が作られるのは、元末期、張士誠が首領の農民反乱軍が杭州を占領した後の事です。

城壁が壊され、宮殿も焼かれ、かつて華やかな都だった杭州は寂れてしまいました。美しさを誇った西湖も荒れるに任され、多くの寺院が崩壊したままでした。しかし至元二十七年には町の華やかさを取り戻します。元の時代の町の様子については、マルコ・ポーロの「東方見聞録」に詳しく出ています。

杭州は古都として元の時代、文化の中心地そして東南地域の経済の中心地でもありました。特に印刷業は発展を続け「刻印之精、為諸路州」と称されました。また雑戯とも元曲とも北曲いう古代劇がこの時代に完成しますが、これは宋の時代に始まったといいます。杭州は金仁傑、范康、施惠などといった劇作家を排出しました。そして元の時代の四大画家と言われる人達がいるのですが、その中の一人、黄公望は杭州の人で、西湖周辺にすみ、多くの山水画を残し、その作風は後の世に大きな影響を与えました。

さて、元末期、張士誠が首領の農民反乱軍が杭州を占領しました。上でも触れたように至正十九年(1359年)3ヶ月の突貫工事で城壁が再建されました。このときの杭州城は以前よりも東側に拡張され、明、清時代の杭州城の基礎となりました。

 

一口メモ <西湖竹枝詞>

元の時代に楊維禎が初めたという「竹枝詞」は西湖を歌った詞のスタイルです。竹枝詞とはその土地の風俗、人情などを民謡風に歌い上げたもので、七言四句で書かれます。小唄的なと日本では称されているようです。そして各地の名前を冠した竹枝詞があります。もちろん北京にも「都門竹枝詞」や「都門雑咏」などがあります。

「西湖竹枝詞」も、「西湖竹枝集」や「西湖雜咏」などに収められています。

 


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中国歴史・習慣・風俗の雑記帳「ぽんずのページ」