12. 西湖の歴史


「天下西湖三十六、就中最好是杭州」ということばがあるそうです。清朝に王たくによって書かれた『西湖考』によれば、全国には36の西湖があったといいます。蘇東坡は杭州、潁州(今の安徽省阜陽)、惠州(今の広東惠州)といういずれも西湖がある町で任官しました。その事について南宋の詩人楊万里は詩にこう書いています。

三處西湖一色秋、銭塘潁州及羅浮
東坡原是西湖長、不到羅浮那得休

北京の昆明湖も昔は西湖と呼ばれました。このようにいたるところにあった西湖も、いつしか西湖といえば杭州の西湖となるのは、歴史があり、風光明媚であったこと、そして多くの文化人に愛されたからでしょう。

西湖は南北3.3km、東西2.8km、そして湖の周りが15kmほどあります。面積は5.6平方kmで蘇堤、白堤によって分けられ、外湖、裡湖、後湖の3つに分けられます。

この西湖がどのようにして出来たかについては、こんな伝説が残っています。

大昔、東海に玉龍が、そして天目山には鳳凰が住んでいました。二匹はとても仲良しでした。

ある日彼らは宝石山できらきらと光る白玉を見つけました。鳳凰は嘴でついばみ、玉龍は爪で磨いで玉石を美しく輝くすばらしい宝玉に作り上げました。

このことが天の都に伝わり西王母の知るところとなったのです。西王母は人間界の珍宝だと思い、天の軍隊を遣わしこれを奪い取ってしまいました。

数日後、玉龍と鳳凰は突然天空からの一筋の黄金の光を目にしました。西王母が宝玉を手にしていたのです。玉龍と鳳凰はそれを見ると、宝珠を奪い返すために天に昇っていきました。

これに西王母は驚き、思わず宝玉を落としてしまいました。そしてこの天から落ちた宝玉は地上に落ちると光り輝く湖になったのです。

玉龍と鳳凰は再び奪われないように、日夜この宝玉を守りつづけました。そして長い時間が経ち二匹は玉龍山と鳳凰山に変ってしまいましたが、今でも湖を見守り続けています。

実際は、秦漢の前は西湖はまだ海の中でした。南の呉山と北の宝石山が岬として突き出す形の湾でした。ですからこの時代、現在の杭州市内はまだ海の底でした。銭塘江そして長江の土砂が堆積して、「入り江」がふさがってきます。それが西湖の前身です。まだ潮の満ち干きで海と一体化する事もありましたが、漢から晋にかけて湖として形が固まってきます。当初はもちろん塩水湖でした。しかし雨と川の水などが絶え間なく塩分を少なくし、唐の時代にはすでに淡水となっていました。

名前については、漢晋の時代には武林山のふもとにあったので「武林水」と呼ばれていました。唐には銭塘県の県境にその場所があたることから「銭塘湖」と呼ばれます。西湖と呼ばれるようになったのは唐から宋にかけて、次第にその名が浸透してきたようです。

杭州の歴史の中でも何度か紹介してきましたが、西湖では大きな改良工事が行われています。

1. 唐の時代、白居易が杭州刺史を勤めていたとき。現在の銭塘門の外に灌漑用の堤を設けた。これは西湖の美化にも繋がり、杭州の観光の最初の目玉となった。

2. 呉越国の時代、銭鏐が杭州を都に定めて後、水草を取り除く仕事をする「撩湖兵」を1000人置き、湖の浚渫を良くさせた。これは後々まで湖が涸れないようにするための銭鏐の措置だった。

3. 北宋の時代、蘇軾の全面的な改良工事。湖の水草、泥をさらい堤を造らせる。これが現在の蘇堤。また水の浚渫を滞らせないため「撩湖司」を設ける。湖の一部を農民に貸し菱を植えさせ、浚渫のための経費の一部にした。(二十五史の宋史九十七巻志五十の河渠七/東南諸水下の三番目の部分、臨安西湖 を参照してください。)

4. 南宋の時代、杭州に都を定めて後、御苑が西湖の周囲にたくさん作られた。南の聚景、真珠、南屏、北の集芳、延祥、玉壺などなど。これらは西湖が見渡せる大規模なものであった。それ以外にも皇族、貴族などが競って別荘や庭園を造った。また画舫が湖にたくさん浮かび、それらは贅の限りを尽くしていた。西湖十景が形成されたのものこの時期。

5. 南宋が滅びて荒れるがままになっていた西湖だったが明の正徳年間(1506-1521)楊王瑛が知府として赴任、唐宋の西湖の風景の復活に尽力。明の時代の『西湖游覧志余』にも西湖の改良工事に功績のある三人として、白居易、蘇東坡そして楊王瑛があげられている。

6. 聖祖二十八年(1689)年に康熙帝が杭州をはじめて訪れるが、そのとき浚渫工事と孤山の行宮建設が行われた。その後、清の時代、康煕、乾隆帝が多く杭州を巡幸、その前後には大掛かりな春節工事などが行われた。1699年康熙帝が2度目に西湖を訪れたとき、西湖十景を揮毫した。このとき「雷峰落照」と「南屏晩鐘」の落と晩を皇帝が嫌い、「雷峰西照」、「南屏暁鐘」にあららめられた。雍正年間(1723-1735)に浙江巡撫の李衛らは3700両余りを使い2年を費やし裡湖と外湖の深さを4~5尺に掘る工事を行った。

このような工事を経て、西湖は現在の姿を残すに到りました。

 


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参考資料:西湖古地図

西湖全図 中華民国二十六年(1937年)

地図提供:もりた先生

 

中国歴史・習慣・風俗の雑記帳「ぽんずのページ」