10. 歴史-9
8.宋-3 南宋といったら忘れてはならない人がいます。秦檜と岳飛です。時代が多少遡ってしまいますがご紹介しましょう。
岳飛は1103年農家生まれで兵卒から最年少で将軍にまで出世したひとです。金との戦、反乱鎮圧などで武功をあげました。彼は武人として優秀だったばかりではなく、学問もでき、所にも優れた文人でもありました。
秦檜(1090-1155)は混乱の時代皇帝が捕虜になったり、官僚が機に乗じて楚の国、斉の国をたてたりした宋から南宋の混乱期の官僚です。彼自身もこの時代金に捕らえられました。1130年秦檜は金から戻りますが、金のダランという有力者から和平の道を開くよう頼まれていたようです。しかし、彼は脱出してきたように見せかけ高宗の信任を受け宰相にまで上ります。
秦檜が宰相になったころ、金ではダランが国政を握り、秘密裏に和平交渉が進められますが、屈辱的な条件に金は怒り、和平派のダランを殺し、再び交戦状態にもどります。金は河南、陜西を占領、その後もなんかを続けますが、宋の将軍達もこれを迎え撃ち、金の南進を阻止しました。このとき活躍したのが岳飛です。
戦況が宋に有利に展開していたときに、高宗と秦檜は突如、将軍達を都に召還しました。そのころ将軍達は私兵を率いて戦っていましたが、このとき兵を中央軍に改編、軍閥を解体してしまいます。表面的に官位は上がったかに見えましたが、実権は奪われてしまいました。この命になかなか服さなかったのが岳飛で、秦檜はその岳飛を無実の罪で獄に投じ、処刑してしまいます。
将軍達が召還され、戦況は金に有利になります。秦檜は宋が奪回した土地を金が再び占領した時になって講和を申し入れ、宋にとって屈辱的な内容の講和を結びます。そして平和は訪れたものの中国が南北に分割された状態はそれからおよそ100年続きます。
岳飛はその後、獄卒がひそかに持ち出し銭塘門外九曲叢祠わきに埋葬しました。二本の橘の木を植え目印にしたといいます。そして死後20年たって現在の岳廟の場所、栖霞嶺南山麓に埋葬され、側の顕明寺が功徳寺という改名されます。また嘉定十四年(1221)には岳飛の孫の希望により北山智果観音院が功徳寺と改名、皇帝から「褒忠衍福禅寺」という額を賜ります。これが現在の岳飛廟の始まりです。そのご荒れ放題になっていたこの場所が元にいたり修復され、到元年間(1264-1294)に李全初という杭州を管轄していた長官によって全面的に修復が行われました。そのときに岳飛の家に残っていた岳飛の想像画が掛けられ、息子岳雲、武将趙憲の像が両脇に侍しました。明の宣徳年間に火災に遭いますが、このときも地方長官らによって再建されます。このときにあの有名な、秦檜夫妻、張俊、万俟xie4の鎖で繋がれた跪いた銅像がおかれました(清に鉄の像になりました)。そして岳飛をお参りする人達はこの4人の像につばを吐きかけ、鞭打ち岳飛の無念を晴らしたといいます。(芥川龍之介によれば、尿をかける輩もいたそうでその匂いがしたそうです)
宋の時代にはもちろんもっと重要な人もいたかもしれませんが、ここでは杭州の観光地の一つになっている岳飛廟にスポットをあててみました。
一口メモ <水滸伝> 北宋末期、華北では宋江ら36人の頭目に率いられた集団が、山東の梁山泊を根拠地に山東、河北、江蘇一帯を荒らしまわっていました。この集団はとても強く官軍数万を持っても抗しがたかったと恐れられていましたが、山東の海州で最後に降伏します。この話がモデルになって出来たのが「水滸伝」です。なかには108人の豪傑が登場、活躍します。
このなかで杭州は方臘討伐の杭州攻めの主な舞台となっています。(方臘も宋江たちとかわらない睦州(浙江)青渓で反乱を起こした人なのですが、梁山泊の面々はこのころ朝廷と組、官軍になっていて討伐を命ぜられました。)また杭州出身という人物もたくさんいますし、船火児の張横、その弟浪裏白跳の張順は杭州出身、武松は杭州六和塔の寺男になったのではなかったかしら……魯智深は六和塔に葬られたのじゃなかったかなぁ。六和塔には魯智深のおはかがあるとか、ないとか……。六和塔は方臘討伐で宋江たちがベースにした場所なんです。
テレビドラマもありますし、小説もたくさんありますので、お時間がある時にでも、ぜひ読んで見てください。
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