9. 歴史-8


8.宋-2 南宋

宋の時代、北には金が控え、勢力を伸ばしていました。その金から逃れるため宋王朝は都を遷します。1227年南京に都を構えますが、金の勢力に押され短期間に揚州、建康、杭州、越州(今の紹興)へと遷都を繰り返しますが、ようやく1129年高宗が杭州を臨安府に昇格させ、1138年宋、つまり南宋の都となりました。

南宋の時代、臨安府は何度も拡張工事がなされます。南は跨呉山、北は武林門、銭塘江と西湖にはさまれた広大な都城となります。周囲には13の門があり、そのいくつかの門は門の前に小さな門で二重に都城を守っていました。(北京の徳勝門を思い出してくださいませ)また周囲は堀に囲まれ、堀の両岸には柳が植えられ人の往来は禁止されていたそうです。

さて臨安府の都城は他の地方には見られない特色があります。一般に宮城が北側か中心部にあるのですが、杭州では南にあります。また宮城も十分な形態のものではなかったといわれています。また宮城と城壁の狭い部分に官庁が置かれているなど、首都として都市建設を行ったのではなく、ある程度発展した都市を首都としたため、中国の伝統的な都とはまったく異なった趣の都城となっています。

この時代、臨安府は政治の中心地であったばかりではなく経済の中心地でもありました。絹織物、印刷、陶器、造船などが主な産業です。

絹織物は「絲綢之府」といわれるようになっていました。劉、呂、陳、鈕など10を超える有名店があったといいます。

印刷業は、陳宅書舗、陳解元書籍舗などが有名で、唐、宋の有名な詩文集を印刷していました。杭州で印刷された書物は、活字がきれいで、紙も白く、墨もかぐわしいのが特徴でした。現在でも鐘家で印刷された本などが北京図書館に残っています。

陶器は、朝廷用の「官窯」が鳳凰山のふもとに設けられ、それらから発展しました。

造船は、西湖に浮かぶ画舫から大海を航る大きな船まで造られていました。

政治の中心地でもあり、経済の中心地でもあった杭州には人々が集まり、そして物も集まってきました。それらは運河や海やそして陸路集まってみましたが、品物により、陸揚げされるっ場所は決まっていて、「北門米、南門柴、東門菜、西門魚」ということわざも出来ました。

学術文化の発展も見逃せません。最高学府太学は岳飛の住宅跡地に作られました。学生は多いときで3000人を数えたといいます。

民間芸術も栄え、20を越える常設の出し物小屋がありました。それぞれの芸人達は組織を作っており、演劇は緋緑社、唱歌いは遏雲社、言葉を操る芸人の同文社、影絵芝居組織などいろいろあったといわれます。演劇は京劇のように男性ばかりで演じられていたわけではなく俳優には男性も女性もいました。一つの劇団(戯班といいました)は5人から多くても10人ちょっとで構成されており、男優は「楽人」、女優は「弟子」とよばれ、女性だけの劇団を「弟子雑劇」といったそうです。

 

一口メモ <乗り物>

中国で、一般にどこかに出かけるときには駕籠や馬をつかいましたが、杭州では船もよく使われた交通手段です。官僚達は一般に馬や駕籠を使ったようですが、住んでいる場所によったはやはり船を使ったとか。

杭州を舞台にした小説の一部にこうかかれています。

 清朝末期の杭州の徒歩に代わる主要な交通手段は相変わらず駕籠、馬、舟だった。馬は、湖岸から霊隠大道を多く歩いていた。それらは観光客用で乗っている人の多くは北方の人達だった。舟はよそから杭州に来た人たちが乗っていた。荷物があるときには川を行き来する町中の船に乗るのが一番便利だった。忘憂楼府の裏庭も外の桟橋と繋がっていた。籠は当時依然として主要な交通手段だった。

「南方有嘉木」より 

船にはたくさんの種類がありました。庶民が使う落脚頭船、金持ちの自家用船、米や塩、柴、煉瓦などを運ぶ大灘船、旅行客用の舫船、飛蓬船、漁船、仏教寺院や道教寺院の赤い色の船、そして屎尿を運ぶ船まで……そんな船が行き交うのが杭州の城内でした。

 


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中国歴史・習慣・風俗の雑記帳「ぽんずのページ」