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嫦娥(じょうが)のお話 その1


-中秋節の由来-

 昔、昔、そのまた昔、10の太陽が一度に空に現れたことがありました。大地は荒れ果て、海は干上がり、人々は暮らしを立てることすらできなくなりました。このころ后羿(こうげい)という勇敢な若者がいました。その力は万斤の宝の弓を引くことができ、どのように恐ろしい獣でも射ることができたといいます。彼は人々の苦しむ様子を見て宝の弓と神の矢を持って一気に九つの太陽を射落としました。最後の太陽は許しを乞い、后 羿が怒りを静め弓を納めて、太陽に人々のために決まった時間に昇り、沈んでいくことを約束させました。

 后羿の名前は天下にとどろき、人々は彼を敬いました。その後彼は嫦娥(じょうが)という娘を嫁に取りました。嫦娥はとても美しく、そして穏やかで、聡明な女性でした。二人の仲はむつまじく、幸せに暮らしていました。とくに嫦娥は心やさしく、常々夫の狩ってきた獲物をみなに分け与えており、人望も厚いものがありました。そしてみなは、后羿はよい嫁をもらったとうわさしておりました。

 ある日、狩の途中で后羿は一人の年老いた道士に出会いました。老道士は后 羿の人となりに感服し、一包みの不老長寿の薬を与えたのでした。この薬を飲めば不老長寿を得ることができ、天に上り仙人になることができるのです。しかし后 羿は妻や自分の周りの人々とはなれて一人天に赴こうとは思いませんでした。家に帰ると不老長寿の薬を嫦娥に渡し、つづらの中にしまわせたのでした。

 このころ、后羿のもとには、彼の威名をしたって多くの人たちが集まっていました。その仲に蓬蒙(ほうもう)という悪賢いものがおりました。蓬蒙は不老長寿の薬を奪い、自分で飲んで仙人になろうと考えたのです。

 その歳の8月15日 后羿は弟子たちを連れて狩に出かけていました。夕暮れ前に蓬蒙はひそかに戻り、嫦娥の部屋に忍び込み不老長寿の薬を渡すよう嫦娥に迫ったのです。嫦娥はやむにやまれず薬を全部飲んでしいました。すると彼女の体は突然軽くなり、窓を抜け出し、一直線に空高く舞い上がったのです。しかし彼女の夫を思う気持ちは強く、地上から一番近い月に彼女は降り立ちました。

 后羿が家に戻ったとき、すでに妻・嫦娥の姿は見えませんでした。侍女の話でようやく后羿は事の次第を知ったのでした。急いで外に出て月を見てみると、、月はいつもよりも丸く、いつもよりも輝いて見えました。それは愛する妻が自分を見守ってくれているようでもありました。彼は覚悟を決めて月を追いかけました。しかしどうしても月にたどり着くことはできません。后羿は妻を思うと心張り裂けんばかりでした。彼は庭に嫦娥の好きだった果物などをおき、彼女を祭りました。近くの人たちもそれにならい、果物をのせたテーブルを供え心やさしい嫦娥をしのんだのでした。

 次の年の8月15日夜。この日も月は特別に丸く、明るく輝いていました。そして后羿はこの日も果物をたくさん置いたテーブルを月明かりの元に供えて妻を思ったのです。それが毎年続き、世間にも伝わり、8月15日が中秋であったことから中秋節としてお祭りするようになったということです。

 月の月宮に入った嫦娥ですが、彼女は日々夫を思い、故郷を思いどのようなご馳走も美しい舞も彼女の心を和ませることはできなかったといいます。毎年8月15日、嫦娥は宮城の門の外に出て、はるか地上の故郷を眺めるのでした。この彼女の美しいその顔が、月を、さらにさらに輝かせ、さらに丸く見せるのだということです。

「民間節日故事」より


嫦娥のお話には、西王母から不老長寿の薬を盗んだというお話もありますが、今回は特にこちらのお話をご紹介しました。

ある伝説では、唐の玄宗皇帝は道士に導かれ月の宮を訪れたということです。そのときの仙女の舞が後に残る玄宗作曲の「霓裳羽衣曲(げいしょうういのきょく)」だといいます。とすれば玄宗も嫦娥に会ったのでしょうね。

付録:もう一つの嫦娥のお話

参考:西王母

漢字解説

后羿: 

中国語の漢字が読めるようにUFT-8でサイトを編集していますが、ご参考までに...

 


2000/09/06

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嫦娥の絵は、中国の絵本から