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芥川龍之介 『北京日記抄』より
五 名勝


 万寿山。自動車を飛ばせて万寿山に至る途中の風光は愛すべし。されど万寿山の宮殿泉石は西太后の悪趣味を見るに足るのみ。柳の垂れたる池の辺に醜悪なる大理石の画舫あり。これも亦大評判なるよし。石の船にも感歎すべしとせば、鉄の船なる軍艦には卒倒せざるべからざらん乎。

 玉泉山。山上に廃塔あり。塔下に踞して北京の郊外を俯瞰す。好景、万寿山に勝ること数等。尤もこの山の泉より造れるサイダアは好景よりも更に好なるかも知れず。

 白雲觀。洪大尉の石碣(せきけつ)を開いて一百八の魔君を走らせしも恐らくはこう言う所ならん。霊官殿、玉皇殿、四御殿など、皆槐(えんじゆ)や合歓(ねむ)の中に金碧燦爛(さんらん)としていたり。次手に葡萄架後の台所を覗けば、これも世間並の台所にあらず。「雲厨宝鼎(うんちゅうほうてい)」の額の左右に金字の聯(れん)をぶら下げて曰、「勺水共飲蓬莱客、粒米同餐羽士家(勺水(しやくすい)共に飲む蓬莱の客(きゃく)、粒米同じく餐羽士(さんうし)の家(いえ)」と。但し道士も時勢には勝たれず、せつせと石炭を運びいたり。

 天寧寺。この寺の塔は隋の文帝の建立のよし。尤も今あるのは乾隆二十年の重修なり。塔は緑瓦を畳むこと十三層、屋縁は白く、塔壁は赤し、--と言へば綺麗らしけれど、実は荒廃見るに堪えず。寺は既に全然滅び、只紫燕の乱飛するを見るのみ。

 松筠庵(しよういんあん)。楊椒山(ようしょうざん)の故宅なり。故宅と言へば風流なれど、今は郵便局の横町にある上、入口に君子自重の小便壷あるは没風流も亦甚し。瓦を敷き、岩を積みたる庭の前に諌草亭(かんそうてい)あり。庭に擬宝珠の鉢植え多し。椒山の「鉄肩担道義、辣手著文章(鉄肩道義を担い、辣手(らつしゅ)文章を著す)」の碑をランプの台に使いたるも滑稽なり。後生、まことに恐るべし。椒山、この語の意を知れりや否や。

 謝文節公祠。これも外右四区警察署第一半日学校の門内にあり。尤もどちらが家主かは知らず。薇香堂なるものの中に畳疊山(じょうざん)の木像あり。木像の前に紙錫(しじゃく)、硝子張の燈籠など、他は只滿堂の塵埃のみ。

 窑臺(ようだい)。三門閣下に昼寢する支那人多し。満目の蘆萩(ろてき)。中野君の説明によれば、北京の苦力(クウリイ)は炎暑の候だけ皆他省へ出稼ぎに行き、苦力の細君はその間にこの蘆萩の中にて売婬するよし。時価十五銭内外と言う。

 陶然亭。古刹慈悲浄林の額なども仰ぎ見たれど、そんなものはどうでもよし。陶然亭は天井を竹にて組み、窓を緑紗にて張りたる上、蔀(しとみ)めきたる卍字(まんじ)の障子を上げたる趣、簡素にして愛すべし。名物の精進料理を食いおれば、鳥声頻(しきりに)に天上より来る。ボイにあれは何だと聞けば、--実はちょっと聞いて貰えば、郭公(ほととぎす)の声と答えたよし。

 文天祥祠。京師府立第十八国民高等学校の隣にあり。堂内に木造並に宋丞相信国公文公之神位なるものを安置す。此処も亦塵埃の漠々たるを見るのみ。堂前に大いなる楡(にれ)(?)の木あり。杜少陵ならば老楡行(ろうゆこう)か何か作る所ならん。僕は勿論発句一つ出来ず。英雄の死も一度は可なり。二度目の死は気の毒過ぎて、到底詩興などは起らぬものと知るべし。

 永安寺。この寺の善因殿は消防隊展望台に用いられつつあり。葉卷を啣へて殿上に立てば、紫禁城の黄瓦(くこうが)、天寧寺の塔、アメリカの無線電信柱等、皆歴々と指呼すべし。

 北海。柳、燕、蓮池、それ等に面せる黄瓦丹壁の大清皇帝用小住宅。

 天壇。地壇。先農壇。皆大いなる大理石の壇に雜草の萋々(せいせい)と茂れるのみ。天壇の外の広場に出ずるに忽(たちまち)一発の銃声あり。何ぞと問えば、死刑なりと言う。

 紫禁城。こは夢魔のみ。夜天よりも厖大なる夢魔のみ。

大正十年(1921年)


龍之介が訪ねた観光名所ですが、当人はそういうところよりも、芝居を楽しんでいたような気がしますね。


芥川龍之介 (1892-1927:)
この文章は、龍之介が大阪毎日新聞社の依頼により大正十年(1921年・中華民国十年)3月下旬から七月上旬まで中国を旅したときの北京滞在中の日記だが、『「支那游記」自序』によると、「一日に一回ずつ書いたわけではない訣ではない」とのこと。

テキストは:
「上海游記・江南游記」
講談社文芸文庫


2012/05/26

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