芥川龍之介 『北京日記抄』より
三 什刹海
中野江漢君の僕を案内してくれたるものは北海の如き、万寿山の如き、或は又天壇の如き、誰も見物するもののみにあらず。文天祥祠も楊椒山(ようしょうざん)の故宅も、白雲観も、永楽大鐘も、(この大鐘は半ば土中に埋まり、事実上の共同便所に用いられつつあり。)悉(ことごとく)中野君の案内を待って一見すると得しものなり。されど最も面白かりしは、今日中野君と行って見たる什刹海(じっさつかい)の遊園なるべし。 尤(もっと)も遊園とは言うものの、庭の出来ている次第にはあらず。只大きい蓮池のまわりに、葭簾(よしず)張りの掛茶屋のあるだけなり。掛茶屋の外には針鼠だの大蝙蝠だのの看板を出した見世物小屋も一軒ありしように記憶す。僕らはこう言う掛茶屋にはいり、中野君は玫瑰露(まいかいろ)の杯を嘗め、僕は支那茶を啜りつつ、二時間ばかり坐っていたり。何がそんなに面白かりしかと言えば、別に何事もあった訣にはあらず、只人を見るのが面白かりしだけなり。
僕、この事を中野君に話せば、中野君、一息に玫瑰露を飲み干し、扨徐(さておもむろに)語って曰(いわく)、「環城鉄道と言うのがあるでしょう。ええ、城壁のまわりを通っている記者です。あの鉄道を拵える時などには線路の一部が城内を通る、それでは環城にならんと言って、わざわざ其処だけは城壁の中へもう一つ城壁を築いたですからね。兎に角大した形式主義ですよ。」 大正十年(1921年) 文章の中にも「旗人の細君」の写真を入れてみましたが龍之介があまりにも興味を持っていたのでもう一枚 芥川龍之介 (1892-1927:) テキストは: |
2012/05/26