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芥川龍之介 『北京日記抄』より
三 什刹海


 中野江漢君の僕を案内してくれたるものは北海の如き、万寿山の如き、或は又天壇の如き、誰も見物するもののみにあらず。文天祥祠も楊椒山(ようしょうざん)の故宅も、白雲観も、永楽大鐘も、(この大鐘は半ば土中に埋まり、事実上の共同便所に用いられつつあり。)悉(ことごとく)中野君の案内を待って一見すると得しものなり。されど最も面白かりしは、今日中野君と行って見たる什刹海(じっさつかい)の遊園なるべし。

 尤(もっと)も遊園とは言うものの、庭の出来ている次第にはあらず。只大きい蓮池のまわりに、葭簾(よしず)張りの掛茶屋のあるだけなり。掛茶屋の外には針鼠だの大蝙蝠だのの看板を出した見世物小屋も一軒ありしように記憶す。僕らはこう言う掛茶屋にはいり、中野君は玫瑰露(まいかいろ)の杯を嘗め、僕は支那茶を啜りつつ、二時間ばかり坐っていたり。何がそんなに面白かりしかと言えば、別に何事もあった訣にはあらず、只人を見るのが面白かりしだけなり。

 蓮花は未だ開かざれど、岸をめぐる槐柳(かいりゅう)の陰や前後の掛茶屋にいる人を見れば、水煙管(みずぎせる)を啣えたる老爺あり、双孖髻(そうじけつ)に結える少女あり、兵卒と話している道士あり、杏(あんず)売りを値切っている婆さんあり、人丹(仁丹にあらず)売りあり、巡査あり、背広を着た年少の紳士あり、満洲旗人の細君あり、--と数え上げれば際限なけれど、兎に角支那の浮世絵の中にいる心ちありと思うべし。殊に旗人の細君は黒い布か紙にて作りたる髷とも冠とも付かぬものを頂き、頬にまるまると紅をさしたるさま、古風なること言うべからず。その互いにお辞儀をするや、膝をかがめて腰をかがめず、右手をまっ直に地へ下げるは奇体にも優雅の趣ありというべし。成程これまでは観菊の御宴に日本の宮女を見たるロティイも不思議の魅力を感ぜしならん。僕は実際旗人の細君にちょっと満洲流のお辞儀をし、「今日は」と言いたき誘惑を受けたり。但しこの誘惑に従わざりしは、少くとも中野君の幸福なりしならん。僕らのはいりしかけ茶屋を見るも、まん中に一本の丸太を渡し、男女は断じて同席することを許さず。女の子をつれたる親父などは女の子だけを向う側に置き、自分はこちら側に坐りながら、丸太越しに歌詞などを食わせていたり。この分にては僕も敬服の余り、旗人の細君にお辞儀をしたとすれば、忽ち風俗壊乱罪に問われ、警察か何かへ送られしならん。まことに支那人の形式主義も徹底したものと称すべし。

 僕、この事を中野君に話せば、中野君、一息に玫瑰露を飲み干し、扨徐(さておもむろに)語って曰(いわく)、「環城鉄道と言うのがあるでしょう。ええ、城壁のまわりを通っている記者です。あの鉄道を拵える時などには線路の一部が城内を通る、それでは環城にならんと言って、わざわざ其処だけは城壁の中へもう一つ城壁を築いたですからね。兎に角大した形式主義ですよ。」

大正十年(1921年)


文章の中にも「旗人の細君」の写真を入れてみましたが龍之介があまりにも興味を持っていたのでもう一枚


芥川龍之介 (1892-1927:)
この文章は、龍之介が大阪毎日新聞社の依頼により大正十年(1921年・中華民国十年)3月下旬から七月上旬まで中国を旅したときの北京滞在中の日記だが、『「支那游記」自序』によると、「一日に一回ずつ書いたわけではない訣ではない」とのこと。

テキストは:
「上海游記・江南游記」
講談社文芸文庫


2012/05/26

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