春聯の由来春節のめでたい対句
春節を迎えるとき、家々の門には、めでたい意味の対句が赤い紙に書かれ貼られる。これを「春聯」と言うが、この春聯を年越しに貼る習慣は、いつ、誰がはじめたのだろうか。それにはこんな言い伝えがある。 昔、度朔山という大変美しい山があった。その山には大きな桃の林があり、その桃の林の真中には大きな大きな桃木があり、その桃木の下に石でできた小さな小屋があった。そこには二人の兄弟が住んでいた。兄さんの名前は神荼(しんと)、弟の名前は郁塁(うつるい)といった。二人は大変な力持ちで、そのことを知ってか、獅子は兄弟を見かけるとすごすごと帰ってしまうし、豹は腰を抜かしてしまう。そして虎は二人のために山を守っていた。 今でこそ整った桃の林になっているが、昔はあたりに野生の桃の木が生えているだけだった。兄弟はそんな林の中で生まれ育った。両親を早くに失い、二人は寄り添うように生きてきた。兄弟はここの桃を食べ育ったので、この 野生の桃には特別の愛着があった。水が涸れれば泉から水を汲んで来て水をやり、虫がつけば一匹一匹取り除いてやって。土をもり、枝を揃え、大切に大切に桃木を育てていた。こんな苦労も二人にとっては何でもなかった。桃はとてもおいしかったし、林の真中の大きな桃木になる桃は、「仙桃」といわれ、特別大きく、そしておいしかった。この桃は不老長寿の桃で、これを食べると仙人になれるといわれていた。 そのころ、度朔山の近くに、野牛嶺という山があった。そこには野人王と呼ばれる男が住んでいた。男は怪力の持ち主で、その力であたりを支配し、王を名乗っていた。野人王は人を捕らえては生き血をすすり、心臓を食すという残忍な男であった。この野人王がある日、度朔山の仙桃のことを耳にした。この桃を食べると仙人になれると聞きつけた男は手に入れるべく手下を度朔山に遣わした。 野人王の手下は、神荼、郁塁の兄弟に、桃を差し出すように言いつけたが、兄弟は「この桃は貧しい人達のもので、王に差し出す桃ではない」と言い放ち、手下を追い返した。 野人王は帰ってきた手下から話を聞くと、怒りまくり、300人の軍勢を率いて度朔山に向かった。兄弟は野人王の襲来に備え、虎を従えて山を出た。しばらくいくと双方は出会い、熾烈な戦いが始まった。野人王は兄弟にこてんぱんにやっつけられ、命からがら逃げ帰った。 野人王は逃げ帰ったものの、悔しくて夜も眠れず、食事ものどをとおらなかった。そして考え抜いた末、ある悪巧みを思いついた。 強風吹き荒れる、深夜、神荼、郁塁の兄弟は小屋の中で気持ちよさそうに眠っていた。すると突然、暗闇の向こうから、何者かが近づいてくる気配がした。兄弟は起きあがり、窓の外から様子をうかがった。すると外にはたくさんの不気味な化け物がいて、叫び声を上げながら小屋に向かってやってくるところだった。二人は少しも動ずる事がなかった。神荼は桃の枝をつかむと化け物を倒すべく小屋を出た。郁塁は縄を手に神荼に続いた。兄弟はあっという間に化け物を捕らえ縛り上げ、そして捕らえた化け物を虎に餌としてやったのだった。 明くる日、化け物に化けた野人王とその手下を兄弟が退治したという話が広まった。人々は二人に感謝した。その後兄弟は天寿をまっとうしてこの世を去ったが、人々は二人を鬼退治のために点から降りてきた仙人で、彼らの植えた桃木には魔よけの力が備わっていると言い伝えられた。その後、毎年年越しには、桃木を削った板に「神荼」「郁塁」と兄弟の名前を書いて門の両脇にかけ魔よけとするようになったという。これが春聯の由来である。 兄弟の名前を書いて魔よけとする習慣はその後も「桃符」として伝わったが、五代の時代、後蜀の孟昶という人が桃符に、「新年納余慶、嘉節号長春」(新年余慶を納め、嘉節長春を号す)と書いて門にかけたことに現在の春聯が始まる。その後、明の朱元章が、大晦日には春聯を門にかけ、春節を迎えるよう官吏に命じ、これが庶民にも真似られ現在に至る習慣となった。このときから春聯は赤い紙にかかれるようになり、今にいたっている。 「中国民俗伝説故事」より この文章は、10年前(1990年)に翻訳の練習として訳したものです。 |
初出:2000/12/19
改稿2011/02/06