四合院訪問記
北京市内に再開発の嵐が吹き荒れている昨今、いまだ昔からの風景が多く残る前門の四合院を訪ねる機会に恵まれました。その家の持ち主は、私の友達の知り合いです。 北京は御存知の通り「内城」と「外城」にわかれ、日本語で言うなら「山の手」と「下町」という雰囲気を持っています。その実「内城」には貴族や官僚のお屋敷が多く、「外城」は庶民の町でした。 前門大街は老舗が多く、昔からの繁華街として知られています。特に昨年大柵欄が整備され、車の通行を禁止して、古い建物と近代的な商店が建ち並ぶ商店街に変身しました。 前門大街を南に、乾隆帝で有名なシュウマイの老舗「都一処」のちょっと先が鮮魚口街で す。東に折れると鮮魚口街、西に向かうと大柵欄。このあたりは文字通りの繁華街。あたりを見まわすと、修築された建物、昔からの朽ちた姿のままの建物、新たに建てられたきれいな建物が混在しています。鮮魚口街は古い書物によると名前の通り魚の市があったようです。そして、帽子の市もあったとか。 きょときょとしながら歩いていると、かつての面影を残した建物がたくさん目に付きます。正明斎という餅屋さん、華樂園という劇場、興華園というお風呂屋さん、会仙居という炒肝で有名なお店などが軒を並べていました。今でも軒先にかかる店の名前を書いた額なども趣のあるものが多く、歴史を感じます。 生活のにおいの染み込んだ、小商いの店が並ぶ中を奥に進んでいくと、ほとんど手が加えられていない建物が目に付きます。そのなかに私たちが向かう四合院の入り口がありました。石段は2段、小さいながらもメンドンがありました。かつての閑静なたたずまいはなくなっていますが、下町の暮らしが垣間見ることのできる空間になっていました。母屋の床はタイル張りになっていて、また、外壁やついたてなどからも当時はハイカラだったであろう建築技術が施されたことがしのばれます。 内城の四合院に比べ、外城の下町の四合院であるせいかちょっとした所がお洒落です。(贅沢であるというべきか。やはり商人はお金を持っていた?)。天井は高く、そのため夏も涼しく過ごしやすいとのこと。冬は「そんなに寒くありませんよ」と聞きました。練炭のストーブがあってやかんがシュンシュンなっていて、近代的な建物ではなくなってしまった温かみも残っていました。ただ生活はとても不便だとのこと。 お水は一つの四合院で1ヵ所にしか水道がなく、トイレは胡同の公衆トイレ。台所は各家が増設するので、四合院の風情が損なわれていることも事実です。トイレといえば「私が小さいころはまだおまるを使っていたのよ」と。「それでも私は小さいころからこの生活になれているから」と案内してくれた女性は言っていましたが、その反面「アパートで1ヵ月でも過ごしたらここの生活には耐えられなくなるだろうねぇ」とも言っていました。 春になり風が落ち着くと、かわらの間から顔を出している雑草を取り除くのが大事だそうです。かわらの下には土などがあるようですが、それもほとんど風化していて、本来ならずっと昔に何とかしなくてはいけなかったとのことですが経費も高く、雑草を取り除き、かわらを押さえるだけで精一杯だとのこと。 古い家を整備しながら住むということはお金がかかることを改めて実感しました。そして、その不便な古い家に誇りを持って住んでいる彼女っていいなぁと思いました。でも、革命前、その四合院は彼女の一家だけが住んでいたのです。そのときはどんなふうだったのでしょうか。 「手入れも行き届いていてね。私の母がいつもなにかしら手入れをしていたから。でも、今は......。自分の持ち家ではないからみんな大切にしないし」そんなことを彼女が話してくれました。かつてはその四合院に家族で住んでいたそうですが、革命後没収。文化大革命当時はその四合院の所有者であるぐらいお金持ちだったということから迫害を受けて下放されたそうです。 その後、かつての四合院に戻ったものの、小さい部屋しか与えてもらえず、近年になり所有権は戻り、家賃も手元に入るようになったとのことですが、家賃は国家により安く抑えられ、修築の資金にもならないほどのお金だといっていました。四合院の風情を楽しみましたが、あわせてこのような四合院を残していくことの難しさも感じました。 老舗の漬物屋さん「六必居」で有名なお漬物「甜八宝」を買い、帰途につきました。大柵欄の老舗の看板をかけた新しいショーウインドウがなんとなく不思議な感じでした。 帰りに見上げた正陽門は、清代の前門大街の絵と同じ風情を今でも残していました。
四合院とは…… 北京地方の標準的住宅の建て方。四角の中庭を囲んで北側に南向きの母屋があり、東側に西向きの、西側に東向きのそして南に北向きの建物があり四合院を形成している。 |
1999年春